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第四十回自然と歴史探訪風林火山の里を訪ねて

 

 

柏尾山(鎮護国家)大善寺:真言宗智山派

今日はすばらしい天気です。

右手に甲斐駒、北岳、鋸岳と横山先生の説明を聞いているうちに、バスは韮崎のあたりを通過します。

右手に見える小山は、新府城の跡だそうで、甲斐府中として武田勝頼が織田信長の甲斐侵攻に備えて、

真田昌幸に命じて築かせた平山城の跡だそうです。

城は八ヶ岳の泥流七里岩の要害に造られたのですが、

古府から府中を移して3ケ月後に高遠城の落城を機に火を放って、岩殿へと退去したのだそうです。

 時に天正933日。   今回の旅はまさにここから始まります。 

 最初に訪れたのは、大善寺です。 

ここは、新府から退去した勝頼が33日の夜、戦勝を祈願して夜を明かした所だそうです。 

バスでくれば、新府とここ大善寺はすぐですが、当時では大変な移動だったと思われます。

大善寺は僧行基により、奈良時代に鎮護国家の寺として創建されたもので、

行基はまた法薬の葡萄(甲州葡萄)の作り方を広めたそうで、寺は別名で葡萄寺とも言われるそうです。

 ミモザの黄色い花に向かえられ、参道入り口の階段のところで横山先生の武田滅亡記をうかがいます。

新府城では、決戦の場を真田昌幸の岩櫃城にするか、小山田兵衛の申し出た

岩殿城にするか協議されたようですが、外様ではなく譜代の申し出を受けてここに来たのだそうです。

今日の横山先生は、風邪をひかれた様で、大きなマスクが目立ちますが、名調子の説明は続きます。

石段を上った所に立派な楼門(仁王門)があります。

そこには、柏尾山の額がかかっています。

そういえば、薬師堂の後ろの山のあたりが柏尾山にあたるのかもしれない。

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