中国の金箔の歴史
       -東晋から始まった?

 度重なる火災による消失にもかかわらず、すくなくとも各時代の代表的
な仏像が温存されている日本とはことなり、中国では全国的な規模で、歴
史的遺産がすっぽりと消えてなくなっている、と考えなければならない。
だから、文献では仏像の存在の推定はできるものの、芸術的な完成度とか、
それらに施された装飾技術については確かめようがない。

 戴逵の乾漆中刳りの軽い仏像は、祭礼の行列に華をそえるために、金箔
が貼られていたに違いない。個人的にそう確信するが、確認はできない。

 残念だ。

 だから、中国の金箔の歴史については、なにもこじつけずに、ひとまず
ブランクとしておこうではないか。

画題:霊隠寺

(杭州)西湖の西2キロ、霊隠山のふもとにある中国の神宗十刹の一つで、東晋時代326年にインドの高僧慧理が建立したと伝えられています。

http://www.geocities.jp/fuyang_ty/04china/hangzhou_y02.html

霊宝寺ではありません。ご容赦乞う。

と書いてあるから、仏教が本格的に伝播を開始したのは東晋の時代
であり、当時の政情が北で不安定、南で安定していたことからも、東晋の首都であった建業(現在の南京)が仏教伝播の中心地であっ
たことは歴史上の事実としては納得できる。が、かといって、その
時代に中国の金箔が歴史を開始したという直接的な関連性は読み取
れない。

 その当時、戴逵という名前の天才的な芸術家が東晋にあらわれ、
丈六の無量寿仏像と菩薩像を製作した。また、乾漆手法を使用して
夾紵像を作成したことも文献上では読み取れる。ただし、それらの
仏像に金箔を貼ったという事実とは直接的に結びつかない。

 事実、それらを裏付ける仏像は一体も残っていない。

 ところが、仏教の文献をいくらしらべても、東晋で金箔が使われた痕跡を読み取ることはできない。

 確かに、鎌田茂雄『中国仏教史』第二巻 受容期の仏教 東京大学出版会 1983によれば、

P55
 東晋の孝武帝(373-396在位)以後、仏教は江南において大
きな勢力をもつようになった。

 唐の法琳の『辯正論』の「十代奉仏篇」を見ると、西晋
の二京においては、寺院一百八十ヵ所、僧尼三千七百余人
いたのが、東晋代、百四年には、寺院一千七百六十八ヵ所、
僧尼二万四千人を数えている。・・・・・・・江南の地に
おいて、仏教教団の基礎がかたまったのは東晋時代である
といえる。

P76
 仏像や画像が本格的に造られるようになったのは晋代か
らである。

P79
 中国の仏像の様式は戴逵(たいき)によって始まったも
のといわれ、しかもそれはたんにインドの様式を模倣した
のではなく独創性に富むものであった。東晋中期以前にお
いては、仏像がインドから中国へ伝来したものは少なく、
画像が伝えられただけであった。東晋代になって初めて仏
像が江蘇省や淅江省および四川省などの地方で造られるよ
うになった。そのような歴史的背景からみて特異な位置を
占めたのが戴逵であった。戴逵が造った夾紵像は苧麻(ち
ょま)(草の名、茎皮の繊維をさいて糸とし布をつくる)
の布を重ねて泥模の上に被せ、漆でこれを固めて泥を除い
たものである。この仏像は軽いために行像の行車の時、四
輪車の上に飾る仏像に適していたのである。

P200
 戴逵の仏教信仰の一面をあらわすものに仏像の製作があ
る。『歴代名画記』巻五によると戴逵は丈六の無量寿仏像
と菩薩像を製作する時、苦心惨憺して三年間のあいだ想を
練って仏像を完成させた。かくして製作された仏像は山陰
の霊宝寺に置かれた。・・・・・

画像:
金陵金箔股肦有限公司のbrochureから

 金陵金箔股肦有限公司のパンフレットには

      東晋(265-420AD)の時代に始まり、
      南朝(420-589)の時代に発達し、
             宋(南朝の一国、420-479)、
             南斉(479-502)、
             梁(502-557)、
             陳(557-589

の各王朝の時代に流行し、以来現在に至るまで南京(Nanjing)
江宁
(こうちょ)(Jiangning)が金箔のホームタウンになっている。
 
1,700年の歴史。

と書いてある。